2026年(令和8年)は、日本の脱炭素政策において極めて重要なターニングポイントとなります。これまで「自主参加型」であった排出量取引制度(GX-ETS)が「第二フェーズ」へと移行し、一定規模以上の企業に対して「参加と排出枠の償却」が法律で義務付けられるためです。
本記事では、2025年5月に成立した改正GX推進法の内容を踏まえ、2026年度から始まる第二フェーズの全容と、対象企業が今すぐ着手すべき実務対応を徹底解説します。
INDEX
排出量取引制度(ETS)とは何か
排出量取引制度(Emission Trading Scheme: ETS)は、企業が排出できる温室効果ガスの総量に上限(キャップ)を設け、その範囲内で排出枠を取引(トレード)する仕組みです。
排出量取引制度の基本的な仕組み
政府は社会全体の排出目標に基づき、対象となる各企業に「排出枠(アローワンス)」を割り当てます。
- 排出枠が余った企業: 削減努力により排出を抑えた分を、市場で売却して収益を得られます。
- 排出枠が足りない企業: 経済成長や設備の関係で上限を超えた場合、他社から排出枠を購入して補填する必要があります。
キャップ&トレードの考え方
「キャップ(上限)」を設けることで、国全体の排出量を確実に抑制しつつ、「トレード(取引)」によって社会全体で最もコストの低い削減手段を選択できる(経済合理性)のが、この制度の最大のメリットです。
なぜ脱炭素政策の中核として注目されているのか
炭素に「価格」をつけるカーボンプライシングの一環であり、企業に「排出を減らせば利益、増やせばコスト」という明確な経済的インセンティブを与えることで、GX(グリーントランスフォーメーション)への投資を強力に促します。
日本における排出量取引制度の位置づけ
日本のETSは、独自の「GXリーグ」という枠組みをベースに発展しています。
GX(グリーントランスフォーメーション)政策との関係
日本政府は「脱炭素成長型経済構造への円滑な移行の推進に関する法律(GX推進法)」に基づき、今後10年間で150兆円超の官民投資を引き出す計画です。ETSはその投資を促す「鞭」と「飴」の役割を果たします。
GXリーグと排出量取引制度の関係性
GXリーグは、脱炭素に積極的な企業が集まり、ルール形成や取引を行う場です。2023年度から始まった「第一フェーズ」は自主的な参加でしたが、2026年度からの「第二フェーズ」では法的根拠を持つ義務制度へと昇華します。
海外(EU ETSなど)との違い
EUではすでに大規模な義務化が定着し、排出枠の多くを「有償オークション」で販売しています。対して日本は、企業の国際競争力への配慮から、当面は「無償割当(無料でもらえる枠)」をベースとし、段階的に有償化を進める「日本型モデル」を採用しています。
第一フェーズ(試行段階)の概要
2023年度から2025年度までの3年間は、本格運用に向けた「助走期間」と位置づけられています。
自主参加型としての位置づけ
第一フェーズでは、GXリーグに賛同した企業が自主的に削減目標を掲げ、目標に達しなかった場合にのみ、不足分をクレジットなどで埋め合わせる仕組みでした。罰則はなく、あくまで企業の自主性に委ねられていました。
対象企業・参加条件
国内の排出量の約4割を占める企業群(約700社以上)が参加。しかし、参加は任意であったため、高排出企業であっても不参加を選択できる余地がありました。
第一フェーズで得られた課題と知見
「算定ルールが複雑」「クレジットの流動性が低い」といった実務上の課題が浮き彫りとなり、これらを解消する形で第二フェーズの制度設計が進められました。
2026年開始「第二フェーズ:義務化」とは
2026年4月(2026年度)から、制度の性質が「自主」から「義務」へと180度転換します。
義務化される内容の全体像
2025年5月の改正GX推進法の成立により、一定基準を満たす事業者は**「GX-ETSへの参加」と「排出枠の償却(義務の履行)」**が法律で義務付けられました。単に参加するだけでなく、政府が決めたルールに従い、排出実績に応じた枠を保有・返却しなければなりません。
制度設計の方向性:公平性と実効性の確保
第一フェーズの反省を活かし、政府が定める「排出枠の割当基準(ベンチマーク等)」が導入されます。これにより、努力している企業が報われ、対策が遅れている企業に追加負担が生じる公平な競争環境が整備されます。
なぜ2026年が重要な転換点なのか
この年から、企業の排出削減は「CSR(社会貢献)」の域を脱し、「法的なコンプライアンス(遵守義務)」となります。目標未達成のリスクが、財務上のペナルティや社会的信用の失墜に直結するようになるためです。
第二フェーズで想定される対象企業
すべての企業が対象ではありませんが、国内の主要な排出源はほぼ網羅されます。
排出量規模による対象範囲
- 基準: 年間のCO2直接排出量が、直近3カ年平均で10万トン以上の法人。
- 対象数: 日本全国で約300社から400社程度と想定されています。
- カバー率: これら少数の大企業だけで、日本の産業・エネルギー部門の排出量の約6割をカバーします。
業種別の影響(製造業・エネルギー関連など)
- 鉄鋼・化学・セメント: 排出量が極めて大きいため、制度の中心的な対象となります。
- 電力・ガス: 発電部門は排出量が多いため、最も厳しい管理が求められます。
- 自動車・機械: 完成品メーカーだけでなく、主要な生産拠点を単体で持つ大規模法人が対象になります。
中堅・大企業への影響度
10万トンという基準は「大規模事業所」を持つ企業が中心ですが、将来的にはこの閾値(いきうち)が引き下げられ、対象が拡大される可能性も議論されています。
第二フェーズで企業に求められる義務内容
対象企業には、新たに「MRV」と呼ばれる厳格なプロセスが課されます。
排出量の算定・報告・検証(MRV)
- Monitoring(算定): 政府が定める詳細なガイドラインに基づき、排出量を算定。
- Reporting(報告): 毎年度、政府(GX推進機構)へ排出実績を報告。
- Verification(検証): 算定値の信頼性を担保するため、登録確認機関による第三者検証が必須となります。
排出枠(クレジット)の管理
政府から「無償」で割り当てられた排出枠を管理し、年度末に排出実績と同じ量の枠を償却(返却)します。
- 枠が足りない場合: 市場から「GX排出枠」を購入するか、「J-クレジット」や「JCMクレジット」を活用して埋め合わせる必要があります。※J-クレジット等の活用には一定の上限(例:償却義務量の10%まで)が設けられる予定です。
不足時の対応とリスク:ペナルティの存在
償却義務を果たせない場合、改正法に基づき、指導・助言、勧告、公表といった措置が取られます。最終的には、義務を果たさない企業に対して**金銭的な負担(過料等)**を課す仕組みも検討されています。
排出量取引とGXリーグ・カーボンクレジットの関係
第二フェーズの取引は、新設される「GX推進機構」が運営する市場が中心となります。
GXリーグ市場との接続
第一フェーズの「GXダッシュボード」は高度化され、排出枠の取引プラットフォームとして機能します。企業は自社の余剰枠をこの市場で売却し、収益化することが可能です。
クレジット活用の考え方
自社での削減が技術的・経済的に困難な場合の補助手段として、カーボンクレジットが認められます。
- J-クレジット: 国内の再エネ・省エネによる削減分。
- JCM(二国間クレジット): 日本の技術を途上国へ提供して削減した分。
自社削減と市場活用のバランス
政府の指針では、あくまで「直接的な削減」が本流です。クレジットに依存しすぎないよう、利用上限などの規律が設けられる点に注意が必要です。
企業経営への影響とリスク
ETSへの義務参加は、CFO(最高財務責任者)にとっての重要事項となります。
コスト増加リスク
削減が進まない場合、排出枠の購入費用が発生します。炭素価格(カーボンプライシング)の上昇に伴い、この「排出コスト」が利益を圧迫するリスクがあります。
経営戦略・投資判断への影響
投資判断に「内部炭素価格(ICP)」を導入し、ETSによる将来の費用負担を織り込んだ上で、設備更新の時期や技術選択を行う必要が出てきます。
脱炭素対応が遅れた場合の不利
「10万トン以上の企業」というリストは公開されるため、対策の遅れは投資家からのESG評価低下を招きます。また、サプライチェーンの下流企業(Appleや自動車メーカー等)から、ETSへの適切な対応を取引条件として求められるケースも増えるでしょう。
2026年義務化に向けて企業が今から準備すべきこと
2026年4月のスタートまで、残された時間は限られています。
排出量データ管理体制の構築
第三者検証に耐えうる、正確かつ網羅的なデータ収集基盤を整えることが最優先です。
- デジタル化: 拠点ごとの燃料・電力使用量をリアルタイムで集計できる炭素会計システムの導入。
- 証跡管理: 請求書や計測器の校正記録など、検証時に必要なエビデンスを体系的に整理。
削減ロードマップの策定
2030年の目標値に向け、どの年度にどれだけの枠が不足しそうかをシミュレーションし、あらかじめ削減投資のスケジュールを確定させます。
社内ガバナンス・担当部署の明確化
排出枠は「資産」として扱われます。環境部署だけでなく、財務・経理部門が関与し、排出枠の取得・保有・償却に関する決裁ルートや会計処理を定めておく必要があります。
今後の制度スケジュールと注目ポイント
制度の詳細は現在も政府のワーキンググループで議論が進んでいます。
第二フェーズ開始までの想定スケジュール
- 2025年度中: 具体的な割当基準(ベンチマーク等)の確定、システムへの登録開始。
- 2026年4月: 第二フェーズ(義務化)本格スタート。
- 2033年度〜: 発電部門を対象とした**有償オークション(排出枠の買い取り義務)**の開始。
今後の制度詳細の決まり方:GX推進機構の役割
2024年に設立された「GX推進機構」が、制度の運営主体として詳細な運用ルール(取引の監視、価格安定のための買いオペ等)を決定していきます。
企業が継続的にチェックすべき情報源
経済産業省の「GX実現に向けたカーボンプライシング専門ワーキンググループ」の資料が、最新の制度設計を知るための一次情報となります。
まとめ:排出枠の有償化を見据えた「データ経営」と「削減投資の早期実行」が不可欠です
2026年から始まる排出量取引制度の第二フェーズは、日本企業にとって「脱炭素」を法律上の義務、そして財務上のリスク・機会として定義し直す歴史的な転換点です。
これまでのような「努力目標」としての削減ではなく、「排出実績に見合った排出枠を確保・償却すること」が事業継続の前提条件となります。特に対象となる大規模事業者にとっては、炭素コストの変動が利益を左右する時代に突入します。
企業にとっての重要な示唆は以下の通りです。
- データの「質」の向上: 第三者検証に耐えうる精緻なデータ管理体制を早期に構築すること。
- 投資判断の再定義: 排出枠の償却費用や将来的な有償化(2033年〜)のリスクを織り込んだ投資計画を策定すること。
- 市場の活用: 自社の余剰枠の売却や、J-クレジット等の効果的な活用により、脱炭素対応をコストから収益源へ変える戦略を持つこと。
「排出枠の有償化を見据えたデータ経営と削減投資の早期実行」こそが、2026年以降の厳しい競争環境において勝ち残るための唯一の道となるでしょう。
参考文献・参考リンク
- 経済産業省|GX実現に向けた排出量取引制度の詳細設計に向けた検討方針 https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/sangyo_gijutsu/emissions_trading/pdf/001_03_00.pdf
- 経済産業省|GX推進法改正案の概要(2025年5月成立)
- GXリーグ公式サイト|GX-ETS(排出量取引制度)に関する解説資料 https://gx-league.go.jp/
- 環境省|日本のカーボンプライシングの動向について
- IEA (International Energy Agency)|World Energy Outlook 2025