2024年12月11日、ISSB(国際サステナビリティ基準審議会)は、IFRS S2(気候関連開示)に関する限定的な改訂を公表しました。今回の改訂は、特にScope 3排出量のカテゴリ15(投資)や、業種分類システム、各国独自の算定方法との関係など、企業が実務を進める上で大きな障壁となっていた論点に対応する内容となっています。
この改訂は、国際基準の「厳格さ」を維持しつつ、実務上の「実行可能性」を担保するための極めて重要な調整といえます。本記事では、改訂の背景から主な修正ポイント、適用時期、そして企業の開示実務にどのような影響を与えるのかを、専門的な視点からわかりやすく整理して解説します。
INDEX
ISSBとIFRS S2の位置づけ
今回の改訂内容を深く理解するために、まずはISSBとIFRS S2がサステナビリティ開示においてどのような役割を担っているのかをおさらいしましょう。
ISSB(国際サステナビリティ基準審議会)の役割
ISSBは、主要な国際会計基準を策定するIFRS財団の下に2021年に設立されました。その使命は、投資家が企業価値を評価する際に必要となるサステナビリティ情報を、一貫性・比較可能性のある「グローバル・ベースライン(共通の国際基準)」として構築することです。これまで乱立していた様々なESG開示基準を統合し、財務諸表と対になるサステナビリティ情報の開示ルールを策定しています。
IFRS S2が求める気候関連開示の全体像
2023年6月に公表されたIFRS S2号「気候関連開示」は、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の提言をベースにしており、以下の4つの柱で構成されています。
- ガバナンス: 気候関連のリスクと機会を監督・管理する体制。
- 戦略: 気候変動がビジネスモデルや財務計画に与える影響。
- リスク管理: リスクを特定・評価・管理するプロセス。
- 指標と目標: 温室効果ガス(GHG)排出量や、それに関連する目標と進捗。 特にGHG排出量については、自社のみならずバリューチェーン全体(Scope 3)の開示が求められる点が大きな特徴です。
財務報告とサステナビリティ開示の関係
IFRSサステナビリティ開示基準は、財務諸表と同じ報告主体、同じ報告期間で開示することが原則です。つまり、サステナビリティ情報は「環境活動の報告」ではなく、将来の現金創出力や資本コストに影響を与える「重要な財務情報の一部」として位置づけられています。
今回のIFRS S2限定的改訂の概要
2024年12月に公表された修正は、基準の根本を揺るがすものではなく、実務上の課題を解消するための「微調整」です。
改訂が「限定的」とされた理由
ISSBは、基準の公表後、世界中の企業や規制当局からフィードバックを受けました。その中で、Scope 3の特定のカテゴリにおけるデータの入手困難さや、各国の既存規制との整合性の問題が浮き彫りとなりました。今回の改訂は、基準の目的を変えることなく、適用を円滑にするための「文言の明確化」や「柔軟性の付与」に焦点を当てているため、限定的(Targeted Amendments)とされています。
実務上の課題を踏まえた見直しの方向性
主な見直しの方向性は以下の通りです。
- 定義の明確化: 解釈が分かれていた用語を整理し、算定範囲を明確にする。
- 柔軟性の確保: 特定の業種分類や算定手法に限定せず、実務上広く使われている手法を許容する。
- コスト・負担の軽減: 過度な負担を強いる算定項目について、合理的な範囲を再定義する。
#174続報としての位置づけ
本改訂は、ISSBの公開審議(Redeliberation)プロセスを経て決定されました。日本のSSBJ(サステナビリティ基準委員会)が策定を進めている日本版S2基準にも直接反映される内容であり、国内企業にとっても避けて通れないアップデートです。
改訂ポイント① Scope3カテゴリ15排出量の扱いの明確化
今回の改訂で最も注目されているのが、金融活動に伴う排出量(カテゴリ15)の扱いです。
Scope3カテゴリ15とは何か
GHGプロトコルにおいて、カテゴリ15は「投資(Investments)」を指します。主に銀行、保険会社、資産運用会社などの金融機関が、投融資先の活動を通じて間接的に排出させる温室効果ガスのことで、「ファイナンスド・エミッション(Financed Emissions)」と呼ばれます。
「ファイナンスによる排出」の範囲を明確化した意義
これまでのIFRS S2では、金融機関は「関連するすべての金融活動」についてカテゴリ15の算定が求められていました。しかし、デリバティブなどの特定の複雑な金融商品について、どのように排出量を紐付けるべきかという実務上の混乱がありました。 今回の改訂では、算定に含めるべき活動の定義が整理され、特にデリバティブ(金融派生商品)の扱いについて、報告の対象から除外できる、あるいは除外すべきケースが明確化されました。
従来の解釈との違い
従来の解釈では「原則すべて網羅」という圧力が強かったのに対し、今回の改訂では、投資家の意思決定に資する重要性(マテリアリティ)やデータの信頼性を考慮し、より実態に即した範囲設定が可能となりました。これにより、金融機関の算定負担が現実的なレベルへと調整されています。
改訂ポイント② 業種分類システムの使用拡大
排出量を業種別に開示する際の「物差し」についても、柔軟性が増しました。
ファイナンスした排出量の業種別開示の考え方
金融機関がカテゴリ15を開示する際、投融資先の業種(例:エネルギー、製造、不動産など)ごとに排出量を整理することが求められます。これは、どのセクターに気候変動リスクが集中しているかを投資家に示すためです。
GICS分類に限定しないことの意味
当初、ISSBは産業分類の基準として世界的に有名な「GICS(世界産業分類基準)」の利用を強く推奨する傾向にありました。しかし、国や地域によっては独自の産業分類(例:日本の中分類など)が定着しており、システム対応のコストが課題となっていました。
他の業種分類システムが許容される実務的影響
今回の改訂により、GICSと同等の透明性と一貫性があるものであれば、他の国際的・地域的な産業分類システムの使用が明示的に許容されることとなりました。これにより、日本企業は国内の既存システムをベースに開示の準備を進めやすくなり、二重管理の負担が軽減されます。
改訂ポイント③ 管轄地域救済の明確化
国際基準と各国規制の「板挟み」を防ぐための救済措置が整理されました。
各国規制とGHGプロトコルの関係
IFRS S2は、GHG排出量の算定に「GHGプロトコル」を使用することを原則としています。しかし、日本には「温対法(地球温暖化対策の推進に関する法律)」に基づく算定・報告制度があり、国際基準と国内基準で係数や算定範囲が微差を持つことがあります。
異なる算定方法が求められる場合の対応
改訂では、各国の管轄地域(Jurisdiction)において、特定の算定方法が法律で義務付けられている場合、一定の条件下でその方法による報告を認める「救済措置」の適用範囲が整理されました。これにより、日本企業は温対法ベースのデータをIFRS S2開示に活用しやすくなります。
GWP(地球温暖化係数)に関する柔軟化のポイント
各ガスがどれだけ温暖化に寄与するかを示すGWPについても、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の最新の値を参照することを基本としつつ、各国規制で特定の版(例:AR4やAR5など)の指定がある場合の調整方法が明確化されました。
改訂ポイント④ SASB基準との整合性確保
IFRS S2は、産業別の詳細な開示を求めるためにSASB(サステナビリティ会計基準審議会)基準を参照しています。
SASB基準とIFRS S2の関係
ISSBはSASBを統合しており、IFRS S2の適用にあたっては、SASBが定める産業別の開示指標(KPI)を考慮することが求められています。
銀行・保険・資産運用業における影響
特に金融3業種については、カテゴリ15(ファイナンスド・エミッション)の開示がSASBの項目とも密接に関連しています。今回の改訂では、S2本体の修正に合わせて、SASBの産業別基準における文言や定義も整合性が取れるように修正されました。
産業別KPIとGHG開示の一貫性
これにより、企業は「S2の基本開示」と「SASBに基づく産業別開示」の間で矛盾が生じることを心配せず、一貫したロジックでレポーティングを行うことが可能になります。
適用時期と早期適用の考え方
今回の改訂がいつから適用されるのか、スケジュールの確認が必要です。
適用開始時期(2027年1月1日以後開始事業年度)
今回の改訂事項を含む修正後のIFRS S2は、2027年1月1日以降に開始する事業年度から正式に適用となります。 (注:3月決算の日本企業の場合、2028年3月期からの義務適用が想定されますが、各国の規制当局の決定に従います。)
早期適用が認められる背景
ISSBは、今回の改訂内容を歓迎する企業に対し、**早期適用(Early Application)**を認めています。これは、改訂内容が「実務的な負担を軽減する」方向であるため、企業が新しい(より柔軟な)ルールを今すぐ使いたいというニーズに応えたものです。
企業が検討すべき判断ポイント
- 準備状況: すでに旧来の厳格な方法で準備を完了している場合は、急いで切り替える必要はないかもしれません。
- 投資家との対話: 算定範囲の明確化によって開示精度が高まるのであれば、早期適用を宣言することで透明性をアピールできます。
- SSBJ基準の動向: 日本のSSBJ基準も本改訂を反映させる方針であるため、日本基準に準拠する企業は実質的に本改訂の内容に従うことになります。
企業実務への影響と対応の方向性
改訂を受けて、具体的にどのような準備を進めるべきでしょうか。
金融機関・事業会社への影響整理
- 金融機関: カテゴリ15の算定対象資産の再精査が必要です。特にデリバティブなどの扱いについて、社内ルールを更新する必要があります。
- 事業会社: 自社が金融持株会社などを持つ場合や、大規模な投資活動を行っている場合、カテゴリ15の緩和措置を適用できるか検討する価値があります。
Scope 3算定・開示体制への影響
今回の改訂は、Scope 3の算定が「いかに実務的に困難か」をISSBが認めた結果でもあります。
- 推定データの活用: 正確なデータが得られない場合、依然として「合理的な努力」の範囲内での推定が認められますが、そのプロセスの透明性は引き続き重視されます。
- システム対応: 産業分類(GICS以外)の許容などを受け、自社の既存のERPや炭素会計システムの設定を見直す必要があります。
開示戦略・内部体制見直しのポイント
- 他部署連携の強化: 産業分類や各国の規制救済を活用する場合、財務部門、環境部門だけでなく、法務や経営企画との連携がより重要になります。
- 外部監査への備え: 開示範囲の明確化(除外項目の設定など)を行った場合、その理由を監査人に説明できるよう、ロジックを文書化しておく必要があります。
IFRS S2改訂が示す今後のサステナビリティ開示の方向性
最後に、この改訂が示唆する大きな潮流を考察します。
国際基準と各国制度のすり合わせ
ISSBは、単に理想的な基準を押し付けるのではなく、各国の既存の法律や実務と「いかに共存するか」を重視し始めています。これは、ISSB基準が世界中で真のデファクトスタンダードになるために不可欠な姿勢です。
実務負担と比較可能性のバランス
今回の改訂は、企業側の「実務負担」への配慮が色濃く出ています。しかし、これは決して「基準のトーンダウン」ではありません。むしろ、あやふやな領域を明確にすることで、「開示されたデータの比較可能性」を真に高めることを狙っています。
中長期的に企業が備えるべき視点
今後もISSBは定期的なレビューを行い、必要に応じて小規模な改訂を行うでしょう。企業に求められるのは、固定された基準に従うことだけでなく、「基準策定の背後にある投資家のニーズ」を汲み取り、柔軟に情報開示をアップデートし続ける姿勢です。
まとめ:IFRS S2改訂を踏まえたScope 3算定の合理化と透明性の両立が重要です
2024年12月のIFRS S2限定的改訂は、企業のサステナビリティ開示実務に「現実的な解」をもたらす一歩となりました。
特に金融機関や広範な投資活動を行う企業にとって、Scope 3(カテゴリ15)の範囲明確化や、業種分類・算定方法における柔軟性の付与は、開示のハードルを下げると同時に、データの質を向上させるチャンスです。
今後、企業に求められる対応のポイントは以下の三点に集約されます。
- カテゴリ15の再定義: 投融資先の排出量算定範囲を最新の改訂内容に基づいて再精査し、算定プロセスの効率化を図ること。
- 既存データの活用最大化: 各国規制の救済措置を適切に理解し、温対法などの既存データと国際開示を賢く結びつけること。
- 早期適用の検討: 改訂による柔軟性を活用することで、投資家にとってより理解しやすく、かつ実務的な負担の少ない開示戦略を早期に構築すること。
「IFRS S2改訂を踏まえたScope 3算定の合理化と透明性の両立」を経営戦略の核に据えることは、脱炭素社会に向けた企業の信頼性を高めるだけでなく、持続可能な資本調達を確実にするための重要な鍵となります。
参考文献・関連リンク
- ISSB|ISSB issues targeted amendments to IFRS S2 https://www.ifrs.org/news-and-events/news/2024/12/issb-issues-targeted-amendments-to-ifrs-s2/
- IFRS|IFRS Sustainability Disclosure Standards 概要 https://www.ifrs.org/issued-standards/ifrs-sustainability-disclosure-standards/
- GHGプロトコル(Scope 3算定の国際的枠組み) https://ghgprotocol.org/scope-3-technical-calculation-guidance
- SASB Standards(産業別基準) https://www.sasb.org/standards/
- SSBJ(サステナビリティ基準委員会)公式サイト https://www.ssb-j.jp/