地球温暖化対策が喫緊の課題となる中、大企業にとって、自社が直接排出する温室効果ガス(GHG)排出量(Scope 1および2)の削減に加えて、バリューチェーン全体で発生する間接排出量(Scope 3)への対応が、脱炭素化戦略の成否を握る鍵となっています。多くの大企業において、サプライヤーが排出するCO2はScope 3の主要な構成要素を占めており、サプライチェーン排出量全体を削減するためには、サプライヤーとの協力が不可欠です 。
INDEX
サプライチェーン脱炭素化の必然性
環境省が提示するガイドラインは、この不可欠な協力を実効性のあるものとするため、サプライヤーエンゲージメントを、サプライヤーに対する「排出量算定・報告、および具体的な排出量削減目標の設定・削減活動の賦課」という「要請」と、その実行を可能にする各種の「支援」の組み合わせとして定義しています 。この「要請」と「支援」の両輪を適切に運用することが、バリューチェーン全体の脱炭素化を成功させる上での核となるメッセージです。
エンゲージメントの実効性と非任意性の高まり
近年、大企業からサプライヤーへの脱炭素化に向けた協力要請は増加傾向にあります 。これは、CDPやSBTi(Science Based Targets initiative)などの国際的なイニシアチブや投資家からの要求に対応するため、大企業がScope 3の測定と削減を急務としているからです。
しかし、この要請の増加と実務的な支援提供の間には、看過できない乖離が存在しています。2023年時点の調査によると、取引先からの要請を受けた中堅・中小企業のうち、要請とあわせて支援を受けたことがある企業の割合はわずか25%にとどまり、実に75%の企業が支援を受けていないという現状が示されています 。このデータは、大企業が外部からの要求に応じる形で要請を先行させている一方で、サプライヤーが排出量算定や削減活動を実施するために必要なリソース(予算、人材、ツール)の投入が追いついていない構造的な課題を示唆しています。この支援のギャップが続けば、サプライヤー側の負荷が増大し、最終的に大企業が収集するScope 3データの信頼性低下につながるリスクが高まります。
さらに、気候変動対応を単なる任意的なCSR活動ではなく、必須の調達条件へと昇格させる動きも見られます。大企業は、サプライヤーからの依頼事項(排出量報告や削減活動)への対応状況について、その実効性を担保するために取引条件と紐づける取り組みを進めています 。この紐づけには、「サプライヤー選定における一評価項目として活用する」類型や、「不遵守の場合に取引停止の可能性を示唆する」類型などが存在します 。この変化は、サプライヤーエンゲージメントが企業間の取引における必須要件へとシフトしていることを明確に示しており、大企業にとって支援の提供は、サプライヤーの負担軽減と同時に、自社のサプライチェーンの安定性と脱炭素化目標達成の確実性を高めるための戦略的な措置となっています。
成功に導く三段階プロセス:「知る」「測る」「減らす」
環境省ガイドでは、バリューチェーン全体の脱炭素化を推進するにあたり、サプライヤーの取り組みの成熟度に応じて、「知る(取組理解)」、「測る(排出量算定)」、「減らす(排出量削減)」という段階的なプロセスで支援を行うことが推奨されています 。この構造は、大企業がサプライヤーの能力向上を計画的に進めるためのロードマップを提供します。
フェーズ 1: 知る(取組理解の醸成)
この最初の段階の目的は、サプライヤーに対し、サプライチェーン排出量の考え方、脱炭素化の必要性、そして具体的な対応方法についての理解を醸成することにあります 。サプライヤーエンゲージメントの基盤となるフェーズです。
要請と支援の内容
この段階において、ガイドには具体的な排出量算定や削減活動の要請内容は明確に記載されていません 。中心となるのは「支援」であり、サプライチェーン全体を通して排出量削減が必要だということ、その対応方法を共有するステップです。具体的な支援手法としては、
勉強会や動画配信等を通じたサプライヤーへの情報共有が基本となります 。
実践事例
多くの先進的な大企業がこの啓発フェーズを実施しています。例えば、セコム株式会社は主要サプライヤー向けに説明会を開催し、自社のサステナビリティに対する考え方や環境保全方針を紹介しています。また、大和ハウス工業株式会社や株式会社NTTデータグループも、それぞれオンライン説明会を定期的に実施し、気候変動問題に関する社会動向や、業態別の脱炭素化取組状況などを講演・紹介しています 。TOPPANホールディングス株式会社のように、動画配信を通じて情報共有を行う企業も存在します 。
フェーズ 2: 測る(排出量算定の実践)
フェーズ2は、サプライヤーが自社のGHG排出量を正確に把握し、削減に向けた基礎データを確立することを目的としています 。測定なくして削減計画は立てられないため、このステップはScope 3削減のボトルネック解消に直結します。
要請と支援の内容
大企業は、自社のScope 3削減の基礎データを得るため、サプライヤーに対してまず排出量算定・報告を要請することが基本となります 。
これに対する「支援」は、サプライヤーが現状の排出量を把握するための実務的なサポートに特化します。具体的な取組例として、算定ガイドラインの作成や、排出量算定ツールの提供が挙げられています 。
実践事例とデータ精度の向上
排出量算定ツールの提供は、サプライヤーの算定負荷を大幅に軽減するだけでなく、大企業自身のScope 3データの信頼性を高める上で極めて重要な意味を持ちます。株式会社NTTデータグループは、自社開発の排出量算定クラウドシステム「CTurtle」を一部サプライヤーへ無償提供している事例があります 。このシステムでは、平均値(2次データ)ではなく、各企業の実測値(1次データ)を算定に利用可能な「総排出量配分方式」を採用している点が特筆されます。GHGプロトコルでは、Scope 3の算定において、信頼性の高い1次データが2次データ(業界平均や推計値)よりも優先されます。したがって、大企業が算定ツールを提供し、サプライヤーの実測データ利用を促すことは、サプライヤーの能力向上に貢献するだけでなく、大企業が投資家や監査機関に対し、より信頼性の高いScope 3データを開示するための戦略的な手段となっています。
また、株式会社NTTデータグループは、CDP質問票への回答で課題が多かった特定の業種(ソフトウェア開発委託)のサプライヤー向けに、排出量算定・削減目標の設定についての解説書を独自に作成し配布するなど、個別課題を解消するための支援も行っています 。
フェーズ 3: 減らす(削減活動と目標設定)
排出量が明らかになったサプライヤーに対し、具体的な削減目標の設定と、その達成に向けた削減計画の策定・実行を支援するフェーズです 。
要請と支援の内容
この段階での「要請」は、排出量算定・報告を基礎としつつ、具体的な排出量削減目標・削減活動の賦課、または自主的な排出量削減目標の設定要請へと進みます 。これらの依頼事項は、サプライヤーの成熟度に応じてその強度に幅があることが指摘されています。
「支援」は、排出削減に向けたアクションの実施を可能にするものであり、具体的な取組例として、サプライヤーとの対話による削減目標の設定支援、および省エネ設備の導入支援が挙げられています 。
個別対話と技術・経済的支援の事例
大和ハウス工業株式会社は、削減目標が未設定の企業向けに目標設定を支援する「脱炭素ワーキング」と、設定済み企業向けに達成を支援する「脱炭素ダイアログ」を使い分け、サプライヤーのニーズに応じた個別対話を実施しています 。三井不動産株式会社も1対1での対話による目標設定支援を行っています 。
削減実行のための技術・設備支援では、大和ハウス工業や三井不動産が、省エネ・創エネ設備の導入提案を実施し、削減活動実行における初期コスト障壁の緩和を図っています 。さらに、海外事例として、米国のWalmart Inc.は、PPA契約の斡旋による再エネ導入支援や、認定サプライヤー向けの融資条件優遇を行うなど、経済的なインセンティブを活用した大規模な削減行動を加速させる支援も行われています 。
実効性の確保とデータ精度の向上
データ品質の重要性と1次データへの移行
サプライヤーエンゲージメントの成功は、単に削減活動を促すことだけでなく、その活動がもたらす排出量削減効果を正確に測定できるかどうかに依存します。Scope 3の排出量算定においては、サプライヤーから収集されるデータの品質が決定的に重要であり、信頼性を高めるためには、業界平均などの推計値(2次データ)ではなく、サプライヤー自身の活動に基づく実測値(1次データ)を利用することが不可欠です。
このデータ品質の確保に貢献するのが、フェーズ2で紹介されたような算定ツールの提供です。例えば、NTTデータグループが提供するシステムのように、総排出量配分方式を用いてサプライヤーの実測値の利用を可能とすることは 、大企業が自社のScope 3報告の精度を戦略的に高めるための手段です。サプライヤー側が負担なく高精度なデータを提供できる環境を整えることで、大企業は監査可能性を高め、ESG投資家に対する信頼性を向上させることが可能となります。
評価と実効性担保のためのメカニズム
依頼事項に対する対応状況や削減活動の実効性を担保するため、大企業は評価・改善のサイクルを組み込む必要があります。
取引条件との紐づけによる実効性担保
前述の通り、サプライヤーに対する要請への対応可否を取引条件と紐づけることは、エンゲージメントの実効性を高める直接的な方法です 。対応状況をサプライヤー選定における評価項目として活用することで、気候変動対応を競争優位性に繋げるインセンティブをサプライヤーに与えることができます 。また、不遵守の場合に取引停止の可能性を示唆する厳しい類型も存在し、対応の必須性を明確にしています 。
継続的な改善を促すフィードバックと表彰制度
単に要請を課すだけでなく、継続的な改善を促す仕組みも重要です。独Volkswagen AGは、サプライヤーに対し自己評価アンケートを実施した後、「業界平均」や「詳細な改善項目」といった具体的なフィードバックを提供しています 。これにより、サプライヤーは自社の立ち位置と具体的な改善の方向性を把握できます。また、TOPPANホールディングス株式会社のように、削減実績の優れたサプライヤーを表彰する制度は、優良事例を認知し、他のサプライヤーへの動機づけとなる評価・改善プロセスの一部として機能します 。
具体的な先進的支援事例と課題克服への示唆
能力向上支援のための対話と教育
サプライヤーエンゲージメントにおける「支援」の質は、その汎用性と個別対応能力によって決まります。一般的な情報共有や説明会に加え、サプライヤーの成熟度や具体的な課題に応じた個別対話が、エンゲージメントの成功に不可欠です。
大和ハウス工業株式会社の事例に見られるように、目標設定の段階にある企業には「脱炭素ワーキング」を、目標達成に向けて実行段階にある企業には「脱炭素ダイアログ」を実施するなど 、個別ニーズに合わせた対話を通じた能力向上支援は、サプライヤーの具体的なボトルネックを解消し、削減活動の実行を加速させる高度な手法です。また、NTTデータグループが特定の業種(ソフトウェア開発委託)向けに独自に解説書を作成・配布した事例も、特定のサプライヤー群の知識ギャップを効率的に埋めるための重要なアプローチです 。
技術的な側面では、大和ハウス工業や三井不動産による省エネ・創エネ設備の導入提案が、サプライヤーにとって大きな投資負担となる初期コストを緩和する効果を持ちます 。さらに、より大規模な削減を促す経済的支援として、Walmart(米)が実施しているPPA契約斡旋による再エネ導入支援や、認定サプライヤー向けの融資条件優遇は 、サプライヤーがサステナビリティに関する取り組みを加速させる強力な動機付けとなります。
また、セコム株式会社は、自社ビルの建替工事における排出量を建設会社と協力して算定した上で、CO2削減価値(クレジット)を購入しカーボンオフセットするなど、サプライヤーのScope 1排出量削減に協力する具体的な事例も存在します 。
支援提供のギャップ克服の必要性
環境省のガイドラインからは、体制構築や課題克服策に関する直接的な記述は見当たらないものの 、2023年時点で75%のサプライヤーが支援を受けていないという事実は、大企業が取り組むべき最大の課題が、
支援提供の量と質を拡大することにあることを示しています 。
このギャップを克服するためには、大企業が自社のリソースと専門性(例:ITツール開発力、金融アクセス、設備導入技術)を集中投下する必要があります。前述の先進事例、特にNTTデータの算定ツール無償提供や大和ハウス工業の個別対話プログラムは、大企業が持つスケールメリットと専門性を活用し、広範なサプライヤー群に対して効率的かつ具体的なサポートを提供するための有効なロードマップとして機能します。大企業は、サプライヤーへの支援を、一時的なコストではなく、サプライチェーン全体のレジリエンスと競争力を高めるための戦略的投資と位置づける必要があり、これが今後のScope 3削減目標達成の鍵となります。
まとめ:エンゲージメントの未来と共創的な価値創造
本報告書は、環境省のガイドラインに基づき、サプライヤーエンゲージメントが、大企業のScope 3排出量削減における戦略的中核であることを示しました。成功への道筋は、サプライヤーの成熟度に応じた段階的な「知る」「測る」「減らす」のプロセスを踏み、一貫して「要請」と「支援」を組み合わせて運用することにあります。
特に、エンゲージメントの実効性を高める上で、以下の2点が決定的な要因となります。第一に、「測る」段階での高精度なデータ(1次データ)の利用を可能にするツールやガイドラインの提供です。これにより、大企業は自社の開示情報の信頼性を確保できます。第二に、「減らす」段階における、個別対話を通じた目標設定支援や、融資優遇や設備導入提案といった経済的・技術的なインセンティブの提供です。これは、75%に上る支援不足のギャップを埋め、サプライヤーの行動を実質的に促す上で不可欠です。
サプライチェーンの脱炭素化は、取引の効率性やコスト優位性を超えて、企業とサプライヤーが共に成長する共創的な価値創造(Shared Value Creation)の機会です。大企業は、単なる規制対応として要請を課すだけでなく、自社の競争力を高める戦略的投資として、サプライヤーへの具体的な能力向上支援を強化することが求められています。この積極的な支援こそが、持続可能でレジリエントなサプライチェーンを構築し、グローバルな脱炭素目標達成に貢献する鍵となります。